日常の「フェチ」と、本当の「フェチ」は違うもの?
女性のモヤモヤ、実体験でゆるっとほぐす先生のゆみかです。
「私、手フェチなんだ〜」「脚フェチでさ」って、日常でよく耳にする言葉ですよね。なんだかおしゃれで、自分の好みをさらっと伝えられる便利さがある。でもね、アダルトな世界でいろんな方と関わってきた私からすると、そういう「フェチ」の使い方は、本来の意味とはちょっと違うなって思うことがよくあるんです。
たとえば、「手がきれいな人が好き」とか「匂いがいい人が好き」っていうのは、恋愛対象として惹かれるポイントや、ただ単に「いいな」と思う好みの話。でも、本当の「フェチ」はそんな生やさしいものじゃないんです。ある対象を見ただけで、体が勝手に性的な興奮を覚えてしまう、理屈じゃどうにもならないくらい強い、熱狂的な欲望のこと。
だから、もしあなたが「え、私が思っていた『フェチ』って、ただの好みだったの!?」と少しでも驚いたなら、大丈夫。ほとんどの人がそうなんです。でも、この違いを知ると、性の世界がもっと面白く、深くなっていく。ここでは、そんな奥深い「フェチ」と、よく混同されがちな「SM」について、私の実体験を交えながらお話ししていきますね。
本来のフェチは「好き」を超えた“信仰”の世界
「好き」という言葉は、誰にでも気軽に使えるものだけど、フェチはもっと強烈。それはもう、「信仰」と呼んでもいいくらい、理屈を超えた執着なんです。
私がそれを身をもって感じたのは、緊縛モデルをしていたときのこと。縛り手(縄師)の男性に体を預けていたんですが、ふと彼の股間に目をやると、縄を扱いながら硬くなっているのが分かったんです。でもそれは、私という人間に対して興奮しているわけじゃない。彼が夢中になっていたのは、縄を引いたり、結んだり、その縄そのものを扱う行為でした。正直、そこにいるのが私じゃなくて、誰か別の人でも、あるいはモノでも、彼は同じように興奮しただろうなって感じたんです。
ああ、これが本当のフェチなんだなって、衝撃を受けました。
私自身にも、そういう感覚はあります。例えば、レザーやラバー製品。身につけるだけで、目にしただけで、体が熱くなってしまう。もう、濡れてしまうから、日常生活で気軽に着られない。正直、ちょっと大変なんです(笑)。でも、それが私にとっての「フェチ」の世界。ただ「好き」なだけじゃなくて、抗いようのない衝動に近い。まるで、生活の中に突然性的スイッチが落ちてくるようなもの。でも、そのコントロールできない感じも、自分にとっては楽しいんですよね。
ここまでくると、フェチはもはや単なる「嗜好」ではなく、あらがえない「癖」の領域。理性ではどうにもならない、ある種の業のようなものかもしれません。
SMとフェチは「関係性」と「対象物」でまるで違う
SMとフェチって、よく同じものだと思われがちだけど、実は全然違うんです。シンプルに言えば、フェチは「物や部位への強いこだわり」で、SMは「相手との関係性や役割遊び」なんです。
先ほどの「縄」を例にするとわかりやすいです。縄そのものに興奮を覚える人は「縄フェチ」。でも、「縄で縛られるという関係性」に性的快感を感じるのが「SM」です。簡単に言うと、対象にときめくか、関係にときめくか、その違いが大きいんです。
私自身、以前は縄に惹かれる自分はフェチだと思っていた時期がありました。でも、実際に縛られてみて気づいたんです。私がゾクゾクしたのは、縄そのものではなく、縛る側との関係性からくる感覚だった。「ああ、これがSMなんだ」って、その時ようやく腑に落ちたんですよ。
BDSMにおける“崇拝”と、推し活の「信仰」は似ている
SMの世界には、“ワーシップ(崇拝)”という要素があります。例えば、女王様を神聖な存在として崇め、ひざまずいたり、靴や手にキスをしたり。この「崇拝」の中には、フェチ的な美意識と、SM的な関係性の両方が含まれています。
さえきゆみかBDSMとは、Bondage & Discipline (緊縛と調教)、Dominance & Submission (支配と服従)、そしてSadism & Masochism (サディズムとマゾヒズム)の頭文字をとった言葉です
実は、この感覚、私自身がハマっている「推し活」とすごく似ているんです。
好きna
2次元キャラクターを目にしただけで、体が震える。それがアニメ化されて動いたり声がついたりすると、もう永遠を手に入れたような気持ちになる。そのキャラクターに関わる全ての人に感謝の気持ちが湧いてくる。これって、もはや宗教的な「信仰」に近いんです。
今も夢中で応援している三次元推しがいます。現場に行って同じ空気を吸うだけで昇天してしまう。私にとって、触れられない距離感こそが尊く、崇拝の感覚が生まれるんです。お金を払えば握手やツーショットもできるけど、私にとってはそれが正解じゃない。触れられないからこそ、神聖さが保たれるんですよね。
SMにおける崇拝も、これとよく似ています。目の前にいるパートナーを心から尊び、ひざまずく。その絶妙な距離感の中でこそ、特別な熱や安心感が生まれるんです。
もちろん、ここで大事なのは「崇拝=美しい祈り」だけではないということ。実際のSMの現場では、叩く、縛る、恥をかかせる──冷静に考えれば、法律的には傷害罪にもなりかねない、人間くさい行為の積み重ねです。だからこそ、祈りのように見える瞬間と、泥臭い現実の両方を抱えているのがSMなんだと思います。
推し活もSMも、突き詰めていくと「自分では決して届かないものに、心を捧げる」という体験。両方を経験している私には、やっぱりどこか通じるものがあるんです。「一緒にするな!」ってマニアの人に怒られちゃうかもしれないけど、両方に共通する「信仰」があるって、私は心からそう思っています。
まとめ|軽やかに楽しむもよし、深く探求するもよし
「私、手フェチなんだ〜」って、軽やかに使うのは全然悪いことじゃない。むしろ、会話のスパイスになって、自分の「好き」を表現するって楽しいことですよね。
でも、本当のフェチやSMの意味を少し知るだけで、その言葉の奥行きがぐっと広がります。フェチは対象物への信仰、SMは関係性の遊び。この違いを知るだけで、あなたが自分の欲望とどう向き合えばいいのか、そのヒントが見つかるかもしれません。
フェチやSMは、どちらも恥ずかしいことじゃない。それは人間らしい欲望の、一つの形です。軽やかに楽しんでもいいし、もっと深く探求してもいい。
SMをより楽しむなら、あなたのフェチ世界を掘り下げていくほど、それが強みになりますよ。













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