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夜がない家
三十四歳になって、夜というものが家から消えた。喧嘩をしたわけではない。夫は優しいし、朝はコーヒーを淹れてくれる。ただ、布団の中で触れ合う温度がなくなった。二年前、忙しくなったあたりから、おやすみ、が先に来るようになった。私はそれを責めなかった。責められるほどの冷たさではなかった。無いものは、無い。
肩が重い、と口にしたのも、夫に対してではなかった。鏡の前で自分の肩を揉んで、指が届かない場所があることに気づいただけだ。予約の画面には、男性セラピストの名前が並んでいた。奏、三十代半ば。低い声、とだけ書いてあった。施術の範囲は事前に同意した。背中、肩、胸まで。私は三十四歳で、自分の体のどこを預けるか、自分で決めた。
夫には、肩が凝ってるから、とだけ伝えた。嘘ではなかった。夜がない家で、肩だけが正直に重かった。
白いタオルの個室
個室は狭くて、照明が低かった。オイルの匂いが先に部屋の形を教えてくる。甘いのではなく、温かい草の匂い。白いタオルがベッドに一枚、きっちり畳んである。脱いだ服を預けるカゴのふちが、少し冷たい。
「うつ伏せからいきます」
奏の声は、書いてあったとおり低かった。三十代半ばの男の声で、会話を急がない。手だけが大きい。オイルを掌で温めてから、最初に触れたのは肩ではなく、肩甲骨の下だった。タオルの下から熱が染みる。背中の真ん中を、親指の腹でゆっくり確認してくる。凝ってますね、とも言わない。手の圧が変わるだけで、ここ、と教えてくる人だった。
私は目を閉じて、肩の話をしていたはずの自分を探した。オイルが肌に沿って広がり、重さが少しずつほどけていく。夫の手は、こんなに大きくなかった。比べるつもりはなかったのに、背中の幅ごと覆われる感覚が、二年ぶんの空白をなぞった。
「仰向けに」
短い。タオルを胸の上に直してくれる指先が、布の縁だけを持つ。肌には触れない。その丁寧さが、逆に肌を待たせた。仰向けになった私の胸は、タオルの下で自分の呼吸を持ち上げていた。肩は、もうほとんど重くなかった。
肩の話をしていたはずなのに
最初に胸へ移った瞬間、呼吸だけが先に変わった。肩甲骨の下を撫でていた同じ手が、鎖骨の下へ滑る。タオルを下げる許可を、声ではなく手元で待つ。私は小さく頷いた。同意は、予約のときに済んでいる。それでも、今この部屋で、もう一度だけ確認してくる。
オイルが胸のふくらみに乗る。温かい。掌が下から支えるようにして、円を描く。乳首にはまだ触れていない。触れていないのに、布の下で先が起きてくるのが自分でわかった。肩の施術をしていたはずなのに、胸の形を手で読まれている。戸惑いは、拒否ではなかった。こんな順番だったか、というだけだ。
「力、抜けてます」
低い。褒めているのか、状態を言っているのか、わからない。親指が乳輪の外を一周する。まだ中心には来ない。胸の熱が、オイルの熱と区別できなくなっていく。私の息が、ひとつ分、浅くなった。
奏はそれに気づいて、手を止めない。止める代わりに、円を小さくする。乳首のすぐ外で、熱だけを置いてくる。私はシーツの端を掴んだ。肩の話をしていた自分は、もう部屋にいなかった。
乳首だけで
初めて乳首に触れたとき、声が出そうになって、出さなかった。指腹が、油でとろけた先をつまむように摘む。強くはない。正確なだけだ。左右、同時ではない。右をゆっくり転がして、左は温めで待つ。待たされたほうが、先に疼いた。
「ここ、もう立ってる」
事実だった。否定する言葉が、喉の手前でオイルみたいに滑った。奏の指が、立った先を軽く弾く。蜜が脚のあいだからにじむ感覚が、胸の刺激と遅れて重なった。濡れてる、と自分でわかって、恥ずかしいよりも先に、熱かった。腰が、誰に頼まれてもいないのに、上へ応じてしまう。
「胸だけで、こんなに濡らすんだ」
下品すぎない。的確すぎた。私は目を閉じたまま、喉の奥で音を噛んだ。奏は乳首を指で挟んだまま、圧を少し上げる。とろける、というより、先だけが別の熱になる。イきそう、が胸の表面に集まってきた。
そこで、手が離れた。
一度目。熱だけが残って、芯が欲しくて、空いた。私の腰が、勝手にシーツの上で小さく探した。奏は何も言わず、掌で胸の下側だけを支えている。乳首には触れない。触れない時間が、触れていた時間より長かった。
「……まだ」
私から出た。求めた。奏の指が戻って、今度は左を中心に、乳輪ごとゆっくり捻る。右は爪の腹で、立った先だけを撫でる。濡れ方が変わった。脚を閉じても、蜜は止まらない。奥が、挿れていないのに熱い。中が、待っている形になる。入っていない。今日は入らない。それがわかっているのに、腰だけがリズムを欲しがった。
また、手が軽くなる。
二度目。イく寸前で、圧が消える。胸の先が、空気に触れて痛いほど起きている。私は息を吸ったまま、名前でもないものを喉に溜めた。
「イきたければ、言って」
煽りだった。優しい声のまま、逃げ道を塞いでくる。私はシーツを握り直して、言葉を選ばなかった。
「触って。まだ、触って。……イかせて」
沈黙が、一瞬だけ厚くなった。奏の呼吸が、こちらに落ちる。ずっと動かなかった声が、そこで一度だけ揺れた。指の圧が、意図より深く沈む。低く、短く——
「……わかってる。俺も、だ」
素だった。欲だった。次の瞬間には、もう手に戻っている。今日は入れない、と掌が言っている。乳首で、いけるところまで、と指が言っている。三度目の焦らしは、短かった。摘んで、転がして、離すふりをして、離さない。先がとろけて、蜜が太ももの内側を伝う。腰が、挿入のないまま、奥を探して動く。声を出そうとして、出せない。
「いい。そのままでいい。乳首だけで、イけ」
制御が、先に落ちた。イく、が胸の表面から中へ刺さる。挿れてほしかった言葉が、届く前に折れた。背中がベッドから浮く。喉の奥まで開いたのに、声は一行も出てこない。息を吸ったまま止まる。鎖骨の下が、オイルより赤く見える。足の指が、開いたまま固まる。握っていたシーツの端だけが、掌の中で熱い。
胸の先を、知らない人の大きい手に預けることだけで、私は果てた。夫の知らない胸が、知らない人の手の中で、ひらいた。
奏は、すぐには離れなかった。乳首から指を外して、掌を胸の横に置く。拍が戻るまで、確認するように。会話は、また少なくなる。私の肩は、最初に預けた理由のまま、もう重くなかった。重くない肩の下で、胸だけがまだ小さく痙攣していた。
ブラの中が、まだ
服を着る手が、ひとつ遅れた。ブラのカップに胸を収めた瞬間、布の内側が熱いままだった。乳首が、自分の下着に触れて、また起きかける。個室のオイルの匂いは、首の後ろに薄く残っている。洗い流す場所は、家に帰ってからだ。残したまま、外へ出た。
受付で次の枠を見た。見てしまった。奏の名前が、同じ低い字で並んでいる。肩、と理由をつければ、予約は通る。肩は、本当に楽になっていた。楽になった先で、胸が別の夜を覚えてしまっている。
帰り道、風が襟元に入っても、ブラの中だけが温かい。夫には、肩が軽くなった、と伝えれば足りる。足りないのは、私のほうだ。言えない熱を、カップの内側にひとりで持っている。また予約してしまう予感は、罪悪というより、体の正直さに近かった。
夜がない家に帰る。おやすみ、は、たぶん今夜も先に来る。私は三十四歳で、夫を責めない。責めないまま、知らない手の温度だけを、胸の先に残して眠るつもりでいる。残った熱が、次の予約の日を、もう指で数え始めていた。


