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会う前の三十分、会ってからの三十分|品定めされる側から、選ぶ側へ【官能小説】

バーのカウンターで相手の顔を見定める女性と、伏せて置かれたスマートフォン。アプリで会った相手との初対面の話

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目次

会う前の三十分

三十歳になっても、鏡の前で服を決める手が遅い。独身のまま、画面の小さな四角でしか知らない男と、今夜はじめて会う。湊、三十四歳。文字では丁寧で、間の取り方がうまくて、だからこそ、何を見られるのかがわからない。

ブラウスを三枚、鏡に問う。一枚目は期待しているように見える。二枚目は逃げている。三枚目で、やっと、今夜の私になる。黒いスカート。ヒールは低くする。帰ると決めたときに走れる高さ。バッグの底に、理由を二つ入れた。明日は朝から仕事が入っている、と口にするもの。もう一つは、頭が重い、と小さく言うもの。どちらも嘘ではない。どちらも、使うために用意した。小心さは、三十歳の手に、もう馴染んでいる。

口紅を一度塗って、一度拭いて、薄く付け直す。濃いと欲しがっている。薄いと怯えている。その間を、鏡に聞いて決める。決まった顔が、私を見ている。品定めされる側の顔だ。私はそっちではない側だと思いたかった。実際は、見られる側の呼吸をしていた。鎖骨の上に粉を乗せて、乗せすぎた分を指で戻す。手元が震えていることは、鏡だけが知っている。

駅までの道で、通知を消した。湊からの「着いたら知らせて」を既読にしないまま、改札を出る。遅れるくらいが、自分を守る。早く着くのは、欲しがっている。会う前の三十分は、そういう計算でできていた。改札を出た風がスカートの裾を動かす。二つの理由を、心の中で一度ずつ唱える。使える。使わなくて済むなら、それに越したことはない。それでも唱える。唱えないと、鏡の前の女が、ただの期待になってしまうから。

思っていたのと違う

店は駅前で、看板の文字を私はあとで忘れる。窓側の席に、湊が先にいた。写真より、目の下が静かだった。文字で想像していた軽さがなくて、声が低い。三十四歳と聞いた通りの大人で、だから安心、とはならなかった。違う、と思った最初の感覚は、恐怖に近かった。知らない人だ、というただそれだけが、胸の内側を占領する。

「待たせました」

「ちょうどいい」

ちょうどいい、を彼は値踏みの言葉に使わなかった。水を注文する手元が、丁寧すぎない。私の顔を最初に見ないで、席を示す。外側を私に譲る。逃げ道を塞がない男だ、と頭のどこかが先にメモした。私はまだ、採点表を開いていなかったつもりで、もう開いていた。見栄で笑った自分の顔が、グラスの縁に一瞬映る。鏡の続きだった。

話は仕事の話にならない。彼は自分の話を長くしない。私の言葉の終わりを待ってから、一口分だけ返す。写真の笑顔は、作ったものだったらしい。目の前の湊は、笑わない代わりに、目を逸らさない。それが、文字では掴めなかった人だった。私は観察を始めた。歯の白い男、という項目は捨てた。代わりに、私のコップが空に近づいたとき、彼が自分の話を切って、目だけで確認する。その確認が、支配ではなかった。

声。手元。私の沈黙を埋めない癖。点数は、怖いほど高くなっていく。見栄で伸ばしていた肩が、ひとつ、内側へ戻る。安心は、好きになった、という形では来なかった。観察する側に回れた、という形で来た。品定めされる側の私が、いつのまにか、彼の間の取り方に点を付けている。その逆転に、自分で気づいたとき、帰りの理由がバッグの中で急に遠くなった。

決める

「今日、帰りたくなったら、そのまま帰っていいです」

湊はそれを、優しさの演技にしない。言い方は平坦で、試験にしていない。私が用意してきた二つの理由が、急に重くなった。使う必要がない、と先に体が知る。それでも私はすぐには答えず、彼の顔を見た。喉仏が一度動く。余裕の下で、彼も品定めされる側として座っている。そのことが、具体だった。

決めた理由は、立派なものではない。彼が私の口紅の端が少しだけ崩れているのを見て、それを言わず、視線を戻したこと。直させない。笑わない。直す権利を自分のものにしない。私はその一秒で、選ぶ側に回った。三十歳の私が、三十四歳の男を、自分の点で拾う。

「帰らない」

声は、思ったより小さかった。湊は頷くだけで、勝った顔をしない。それが決定打の二撃目だった。欲を出さない男がいい、という話ではない。欲を、私の上に置かない男がいい。今夜の私は、それを選んだ。会計のとき、彼は「ここまでにする?」と一度だけ聞いた。店の外の風が、また裾を動かす。私はヒールの低さを恨まなかった。走って帰るための高さは、もう要らない。

「このあと、いい」

言葉はそれだけにした。決めたあとの潔さは、説明を削る形で出た。湊の目が、一度だけ、深くなった。仮面が割れはしない。ただ、欲が、目の奥を通った。私はそれを見て、自分で決めたことを、もう一度引き受けた。駅から歩いて十分の、名前を覚えなくていい建物。鍵を受け取る手元を、私は観察したまま、ついていった。

言うことを聞かない

部屋の鍵が回る音まで、私は選ぶ側でいられた。洗面に鏡があった。私は自分の首を見る。服を選んだ私と、服を脱がせる私は、同じ三十歳だ。湊は急がない。ブラウスのボタンに、確認の目をくれる。

「いい」

いい、は許可で、同時に、私の決断の続きだった。彼の口が鎖骨に触れたとき、私の体は、決めたことと別の速度で動き始めた。濡れは、見栄より早かった。隠す隙間もなく、内側がもう正直だった。私は自分の体に、少し驚いた。選んだのは頭なのに、先に蜜が準備をしている。決めた側の私が、まだ上着の感覚を残しているのに、下着の奥はとっくに夜の側へ行っていた。

湊はそれに気づいて、焦らした。指は入り口を知るだけで、中へは行かない。腿の内側を往復するだけの熱で、私の腰が勝手に追う。追うな、と頭が言っても、決めた体は言うことを聞かない。喘ぎは、喉の手前で形を変える。彼は笑わない。ただ、私の濡れ方を、丁寧に測る。

「自分で決めたくせに、まだ隠すの」

声は低くて、下品ではない。的確だった。私は否定できなかった。あと少し、という場所で、指が止まる。緩めない。外す。熱だけが残って、腰が空を掴む。私はシーツではなく、彼の肩を掴んだ。欲しがる自分が、恥ずかしいより先に、大きかった。

「欲しいなら、言って。言葉で」

「挿れて。……中がほしい」

湊の息が、一度乱れた。ずっと崩れなかった顔が、そこだけ崩れる。三十四歳の男の欲が、歯の裏から漏れた。

「……わかってないな。どれだけ待ってたか」

それ以上は言わない。彼はすぐに仮面を戻すけれど、私は見た。見られた側だった私が、いま、彼の崩れを持っている。その持っている感覚が、私をさらに濡らした。彼が挿れる。奥まで、一度では来ない。焦らしの続きだった。浅いところで止まって、私の顔を見る。

「まだ?」

「もっと。奥」

入ったあとのとろける感じは、決めたことへの報酬のようで、報酬ではなかった。制御が、削れる。腰が勝手に合う。濡れているのが、自分の耳にわかる。湊の煽りは、まだ続く。奥を意識させる動きの途中で、また緩める。私が追う。彼は許さない。

「いい顔する。イくときは、逃げるな。自分で選んだんだろ」

逃げない、と私は思った。実際は、逃げようがなくて。中をゆっくり擦られて、奥を知られて、熱が一点に集まる。爆発の絵ではなく、尖る感じ。肩の力が、先に抜ける。私はイく。声は、途中から笑いに混じった。信じられない、という笑いと、もう止められない、という笑いの、境目のないもの。肩が落ちて、彼の腕の中で、私は自分の決断を、体のほうから追認していた。鎖骨の下が赤い。鏡は遠い。見なくてよかった。見なくても、私は選んだ側にいた。

消せる朝

カーテンの隙間から朝が来る。三十歳の独身の女が、知らない部屋のベッドで目を覚ます、という文は、昨日までの私なら、失敗の側に置いていた。今朝は違う。湊はまだ寝ている。呼吸だけが近い。私はスマホを取った。

連絡先は残っている。削除のアイコンは、親指のすぐ下にある。消せる。消さないこともできる。その両方が、自分の手の中にある。品定めされる側の朝では、相手の既読が怖かった。選ぶ側の朝は、既読を待つ必要がない。バッグの中の二つの理由は、使われないまま、ハンカチの隣で折れている。走れるヒールも、昨夜の床にある。鏡の前で服を決めた女と、朝、連絡先を消さない女は、同じ私だった。

私は削除しなかった。残す、という決断も、残さない、という決断も、同じ潔さでできる位置に、いま私はいる。会う前の三十分で守ろうとしたものと、会ってからの三十分で選んだものが、やっと同じ向きを向いている。湊が目を開けた。私の顔を、値踏みしない目で見る。

「帰る?」

「まだ」

まだ、は、昨夜の続きではない。今朝の、私の点だった。画面を伏せて、私はもう一度、自分の首の下を見た。赤い。消えない。消さなくていい。三十歳の私が、三十四歳の男を、自分で残した朝だった。

バーのカウンターで相手の顔を見定める女性と、伏せて置かれたスマートフォン。アプリで会った相手との初対面の話

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この記事を書いた人

北村沙織のアバター 北村沙織 ライター(官能小説・性のコラム)

2017年から「きもイク」で書いている。担当は女性向けの官能小説と、性にまつわる素朴な疑問を扱うコラム。

最初に書いたのは、男の見方についてだった。セックスが上手い男には何が共通しているのか、なぜ足や尻に惹かれるのか。やがて関心は声へ移り、喘ぎ声をめぐる記事を20本以上書いた。大きい声は感じている証拠なのか、無言でイくのはおかしいことなのか、喘ぎ声に方言はあるのか。読者が口に出しにくい疑問を、そのまま見出しにしてきた。

2019年からは官能小説に軸足を置いている。『もしも許されるのなら』全4話、『女性用風俗の極上の悦びに堕ちていく人妻』全7話をはじめ、連載を複数。読み終えたあとに、自分の身体のことを少し考えたくなる話を書く。

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