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結婚して五年。私は三十三で、夫は三十六。喧嘩の仕方も、仲直りも、もう分かっている。夜も、分かっている。
風呂を出て、歯を磨いて、廊下の電気を消す。私は左側、夫は右側。枕の高さも、掛け布団の奪い方も、五年前より上手になった。彼の手が来るのも、だいたい同じ頃だ。首の横を、掌で確かめるように撫でる。私が少し脚を開く。彼が乗る。呼吸の間隔も、腰の動きも、もうお互いの体が先に知っている。
嫌いではない。足りない、とまでは思っていない。ただ、順番がある。キスの位置、手の置き場、終わる時間。私が先にゆるむ夜も、彼だけが肩を落として横になる夜も、どちらも手順のうちだ。終わると、彼は私の髪を一回、指で梳く。「おやすみ」と、低い声。私も返す。隣で、同じ速さの息になる。それが、私たちの夜だった。
水曜日は、特にそうだ。仕事の話を少しして、欠伸をして、電気を消す。彼の手の温度も、首に来るタイミングも、もう身体が先に構えている。私はそれに合わせて脚を開き、彼の背中に掌を乗せる。早すぎも遅すぎもしない。終わったあと、彼はいつもと同じ位置で眠る。私も、同じ向きで目を閉じる。不満ではなかった。順番が、完成していただけだ。
ある水曜日も、そうなるはずだった。
紙袋
玄関で靴を脱ぐ音が、いつもの倍くらい慎重だった。顔を出すと、茶色い紙袋を持っている。中身の形が、袋の外側に角ばって出ている。私を見て、すぐ視線を逸らした。三十六にもなって、買い物の袋を隠すような顔をしていた。
「なに、それ」
「……いや。その。通りすがりに」
通りすがり、で紙袋を抱えて帰る人はいない。私は先に笑った。呆れに近くて、悪意のない笑い。彼は耳まで赤くして、袋を椅子に置いた。箱が出てきた。白い、ごく普通の箱。蓋を開ける前から、中身の見当はついていた。それでも開けて、黒いそれを見たとき、また笑った。声が先に出る。
「はあ? なにこれ」
「電マ、ってやつで。……お前、前に、雑誌かなんかで」
覚えていない。言ったかもしれない。夜のあと、ぼんやり流しただけかもしれない。彼は説明を続ける。スイッチはここ、強さは段階、当て方は人による、らしい。言葉が途中でしょっちゅう死ぬ。視線は箱と私の眉間を往復して、どこにも落ち着かない。普段から照れ屋な人だ。五年一緒にいて、その照れが消えないことも知っている。今夜はそれが少しだけ濃い。
説明書まで出してきた。小さな字を追いながら、彼の指が一度、二度、同じ行を行き来する。私は横から覗いて、また吹き出した。図の当て方が真面目すぎる。彼は説明書を裏返して、私の顔を見ない。
「笑わなくていい」
「やめられない。その顔」
「店でも、けっこう迷った」
迷った、が正直すぎて、また笑った。種類が並んでいて、色を見て、強さを見て、結局いちばん説明の短いやつにした、と彼は言った。途中で言葉が死ぬ。私は箱の縁を指で叩いた。五年、同じ順番で夜を終わらせてきた人が、これを袋に入れて帰ってきた。想像するだけで、また笑った。おかしさだった。まだ、おかしさだった。
「買ってきたの? 私に黙って」
「黙って、というか。渡すタイミングが」
渡すタイミングを五年考えられそうな顔をしていた。私は箱を持って、重さを見た。軽い。電池はもう入っている、と彼が小さく言った。試しにスイッチを入れる。低い音が掌に来る。私はまた笑った。道具そのものより、これを袋に入れた夫の背中を想像して笑った。
「顔、真っ赤だよ」
「言うな」
「今夜、使うの?」
「……どうする、お前が」
「面白そうじゃん」
彼は紙袋を畳み始めた。畳み方も下手だった。底を何度も折って、うまく折れない。私はそれを見て、箱の蓋を戻した。「本気で、笑ってるな」と彼が言った。「だって。あなたが、こんなの買ってくると思わなくて」。私は箱を持って、寝室へ行った。面白半分だった。失敗しても、笑って終わりにできる気がしていた。いつもの順番に、一つ足すだけ。それくらいに思っていた。
数十秒
電気を消す前に、彼が「つけるか」と聞いた。いつもは消す。今夜は、枕元の小さな灯だけ残した。互いの顔が、はっきりしすぎる明るさ。私は服を脱いで、いつもの側に寝た。彼も隣に来る。箱は、枕の向こう。いつもの手は来ない。順番が、そこで一度、止まる。
「恥ずかしいから、目、閉じてよ」と私は言った。軽く。彼は「見るな、ってことか」と返して、それも軽かった。先に笑ったのは私だ。彼がスイッチを入れる。音が小さい。布の上から、腿の内側に当てる。位置が違う。くすぐったくて、私は膝を立てて逃げた。
「違う、違う。そこじゃない」
「分かってる。待って」
待って、と言いながら、手が迷っている。私は自分で彼の手首を持って、ずらした。布の上、いちばん弱いところ。音が、そこに吸いこまれる。最初の数秒は、まだ笑えた。振動がくすぐったくて、変な道具を結婚五年目に持ち込まれたことがおかしくて。夫の真剣な眉間もおかしくて。
「マッサージ機、みたい」とまで言った。自分の声が、まだ笑いの延長にあった。彼は答えなかった。私の顔を見ている。その真剣さが、またおかしかった。
それが、数十秒で止まった。
音は、変わっていない。当て方も、さっきと大きくは違わない。違うのは、私のほうだ。くすぐったさが、熱に変わる。笑いが、途中で切れる。口の端に残っていた笑みが、息に負ける。
笑いの途中で、息だけが残った。腿の内側が、先に熱を持った。布が貼りつく。自分の濡れが、振動の音を変える。私はそれを知られたくなくて、膝を閉じかけた。彼の手が、閉じさせない。力は強くない。ただ、そこに置け、という向きだけがある。
「……あ」
声が、笑いの続きみたいに出た。続きではなかった。次の冗談を探して、見つからない。彼が顔を上げる。目が、さっきまでと違う。照れの奥にあったものが、表に出かかっている。私は見られたくなくて、腕で顔を隠した。隠しているのに、腰が、音のほうへ寄っていく。自分の判断より早い。
「効いてる」と彼が言った。確認する声。私は否定しなかった。否定する言葉より、先に喉が鳴った。布の上なのに、中がとろけ始めていて、それが自分でも分かる。恥ずかしい。道具のせいだ、と笑って片付けるつもりが、片付けられなかった。笑おうとして、息だけが出た。
「まだ、布、あるよ」私が言った。自分で言って、後悔した。彼は少し止まって、それから指で端をずらした。冷気が当たって、すぐ、直に音が乗る。蜜が、先に追いついている。滑る。私の手が、彼の前腕を掴む。離す意味か、寄る意味か、自分でも分かっていない。腰が、勝手に動く。止めたつもりが、寄っている。
「んっ……待って。ちょっと」
待って、は、止まれ、ではなかった。彼は分かっているらしく、強さを一段だけ上げた。私の声が、途中で折れる。いつもの夜なら、この辺りで彼の呼吸が早くなる。今夜は、私のほうが先に崩れている。順番が、逆になっている。喘ぎが、喉の手前で止まらない。自分の音が、灯の下で大きすぎる。
名前を、低く
「見てるな、お前」
低い。普段の照れを、わざと残した声。私は腕の隙間から、彼を見た。見られている。五年、同じ体を見てきた人の目なのに、今は違う。私の濡れも、勝手に動く腰も、全部、正面から拾われている。羞恥が、熱に混ざる。逃げたかった。逃げられなくて、脚が開いたままになる。
「そんな顔、するんだ」彼が言った。「自分で、分かってないだろ」
分かっていない。分かっていたら、こんな音は出さない。彼が当てる位置を、ほんの少し外す。奥へ届きかけていたものが、薄くなる。私は追った。腰が、自分で音を探す。彼は外したまま、待っている。
「……戻して」
「どこ」
私は一度、唇を噛んだ。五年、手順の中で済ませてきたことを、今夜は口にしなければならない。
「そこ。今の、ところ。……当てて」
「当てて、だけか」
私は目を閉じた。灯が、まぶたの裏に残る。閉じても、見られている感じは消えない。
「挿れて。中、ほしい。こんなに濡れるの、自分でも分かる」
言い終わらないうちに、彼の息が乱れた。短い。すぐ戻す。なのに、その一瞬だけ、欲が顔に出た。道具を持った手が、震えたわけではない。目が、欲しがっていた。私はそれを見て、知っている人の、知らない顔を見た。
電マを、完全には離さない。当てたまま、彼が来る。太さが、濡れたところを割る。中へ、ゆっくり、途中まで。奥が熱い。とろけるのが、自分の意志より早い。私は声を噛んだ。噛めない。彼が腰を止めて、振動だけを残す。中にいるのに、動かない。焦らしている。あと少しで届くところを、わざと空けている。
「動いて」私が言った。声が、自分のわりに小さい。
「まだ、だ」
「お願い。奥、やって。イかせて」
「イく寸前まで、持っていく。その顔、見せろ。目、開ける」
開けた。灯の下で、彼の額に汗がある。照れ屋の人が、今は私の腰を押さえて、外へ逃がさない。「電気、消して」と私が言った。彼は首を横に振った。「消したら、その顔、見えなくなる」。私はシーツを握った。彼が、やっと動き出す。浅い。また浅い。電マが、入っているところを叩く。中と外が、別々の熱で重なる。腰が勝手に動く。止めたくても、止まらない。見られている。見られている、ということが、先にくる。
また、外した。振動も、腰も、いちどに遠のく。届く寸前だけを、何度も切る。私は彼の腕を引いた。声より先に、腰がついていく。
「ほしいなら、言って」
「入れて。動かして。お願い、今」
彼は一度、喉を鳴らした。返事の代わりに、中へ戻る。奥まで、一気ではなかった。途中で止まって、電マを再び当てる。私の腰が、それに合わせて動く。止められない。喘ぎが、灯の下で続く。
「濡れて、音になってる」彼が耳の横で言った。「聞いてるか。こんなに、とろけてる」
聞きたくない。聞こえている。自分の蜜が、出し入れのたびに絡む。止まれない。彼の動きが、急に深くなった。奥を、確かめるように押す。私の喉から、言葉でないものが出る。名前を呼ばれたのは、その直後だった。
私の名を、低く。一度だけ。普段は呼ばない呼び方で、喉の奥からこぼした。彼は浅さを捨てて、奥へ、欲のままに二度、沈めた。道具のことなど、一瞬、どうでもよくなった顔。欲が、素で出た。私はそれが怖くて、嬉しくて、彼の背中に爪を立てた。
「だめ、今、イく——」
彼は外さなかった。電マも、外さなかった。中を、短い間隔で突いて、外の音を一段上げる。自分で止めることができなくなる。腰が、勝手に彼に合わせて動く。私は吸った息を、返せない。足の指が、開く。閉じる力が出ない。開いたまま、震える。言葉が、喉の入口で潰れる。イく、も、夫の名も、形にならない。声そのものが、途中で消える。灯の下で、私は見られたまま、声のないまま、イった。
奥が、一度、強く絞る。とろけた中が、彼を掴んで離さない。私は、見られたまま、そこに落ちた。肩が、先に落ちる。鎖骨の下が、赤い。彼は私の額に顎をつけて、自分も続いて、低く吐いた。名を呼んだ残りの声だった。
しばらく、機械の音だけが残っていた。彼がスイッチを切る。急に、部屋が広い。私はまだ、足の指を閉じられない。彼の掌が、腹の上に乗る。いつもの、終わりの合図に似ている。似ているだけだ。順番は、もう戻っていない。
「……今の、」彼が言いかけて、止めた。私も、何も返さなかった。灯を消す手が、いつものより遅かった。隣で、息がそろわない。そろわないまま、私は目を閉じた。笑えなかった夜の、残りが、腿の内側にまだあった。
翌朝
カーテンの隙間から、いつもの光。彼は先に起きて、コーヒーを入れていた。私は三十三の朝の顔のまま、食卓に座る。挨拶は、いつもどおりだ。パンの焼き加減も、いつもどおりだ。触れない。箱のことも、昨夜の声のことも、名を呼ばれたことも。
視線が、たまにぶつかる。すぐ外す。気まずい。膝がテーブルの下で当たりかけて、両方とも引く。コーヒーの濃さは、いつもの濃さだ。変わっているのは、触れない話題があることと、棚の下の箱だけだ。その気まずさの下で、体のほうが覚えている。脚を組むと、奥が微かに残っている。昨夜の蜜の名残で、下着が少しだけ正直だ。私はそれを黙って、カップを持った。彼の耳が、今朝も少し赤い。三十六の耳が赤いのを、私は見て見ぬふりをした。
寝室の棚、いちばん下。白い箱は、まだある。蓋は閉まっている。捨てていない。彼も、捨てろとは言わない。紙袋だけが、小さく畳まれて、資源の袋に入っていた。説明書は、箱の下に挟まっている。昨夜、彼が何度も同じ行を読んだ、あの紙だ。
「今夜、早い」と彼が言った。仕事の話だ。それ以外の今夜は、口にしない。私は「気をつけて」と返した。玄関で靴を履く音は、いつもの速さに戻っている。ドアが閉まる。
一人になって、私は棚の箱を見た。重さは、昨夜と同じくらい軽い。中身を出さない。出す必要は、今はない。蓋の角に、昨夜の彼の指紋が薄く残っているような気がして、指でなぞって、すぐ止めた。順番が一つ増えた部屋に、朝が来ていた。笑えなくて、声が出なくなった夜のあと。気まずさと、捨てていない箱と、それだけで、胸の奥が、まだ熱かった。カップの縁に、小さく笑った。昨夜とは違う笑いだった。


