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自動ドアの内側
榊を見かけたのは、ホテルの自動ドアが閉じて、外の音がすっと落ちた瞬間だった。四十歳の横顔は、昔より少しだけ削れていた。私は三十八歳で、結婚して六年になる。同じ部署にいた頃、何もなかった。今日も、何もしないつもりで、私は名前を呼んだ。
「榊さん」
振り返った顔が、私を確かめるまでに、一拍あった。その一拍が、懐かしさだった。
「……ああ。いたのか」
最初の二往復だけ、敬語が残った。榊さん、が榊になる速さに、私は自分で驚いた。境界を確認するように、私は夫の話をした。子どもの話はしなかった。いない。出張の日程と、泊まる階だけを言った。榊は頷いて、荷物のベルトを持ち替えた。
「飯、行くか。隣でいい」
隣でいい、は、まだ部屋の話ではなかった。私は、しない、と心の中で一度言ってから、ついていった。
指輪の結露
店の照明は低く、グラスの外側がすぐに濡れた。榊は昔の失敗した案件の話をした。終電を逃して、オフィスの給湯室で缶コーヒーを分けた夜の話をした。あの夜も、何もしなかった。今日もしない、という文を、昔話の横に置いているのが分かった。
私がグラスを持ち替えたとき、指輪が結露で光った。榊の視線が、そこに落ちた。隠さなかった。隠さないことが、境界の確認だった。安心が、酒のあとに残った。
「今日も、何もしないだろ」
確認だった。私は「しない」と答えた。しない、という言葉の形を、舌の裏で確かめた。榊は笑わなかった。笑いがないことが、かえって安全に見えた。
会計のとき、私が財布を出した。榊は止めなかった。対等でいること、それも境界だった。外に出ると、夜風が熱を少しだけ持っていった。私は、部屋に戻れば終わる、と思った。
歩道橋の途中で、榊が歩幅を合わせた。昔も、そうだった。合わせすぎない距離。私は指輪の内側を親指で押した。押しているあいだは、妻でいられた。
おやすみが終わらない
エレベーターで同じ階のボタンが点灯した。廊下の絨毯は音を吸った。部屋番号が並んでいた。四百十二と四百十三。隣だった。
「……隣、か」
榊が先に言った。私はカードキーを握り直した。壁一枚。ドア一枚。何もしないつもりなら、この数字はただの数字でよかった。
「おやすみ」
言い終わらない。語尾が、ドアの前で薄く残った。榊は自分のドアに手をかけたまま、動かなかった。私も、かけなかった。数秒が、廊下の非常灯の色のまま過ぎた。
私は先に部屋へ入った。チェーンをかければいい。指がチェーンに触れて、やめた。ドアを、完全には閉めなかった。数センチの隙間。その隙間から、廊下の空気が入ってきた。
引き返すなら、今だった。隙間を閉じて、鍵を回して、水を出して、明日の資料を開く。私は資料の入った袋をベッドに置いた。置いた手を、そのまま離せなかった。
ノックは、なかった。榊は、隙間の向こうに立っていた。呼んでいない。拒んでもいない。その中間に、私は立っていた。
「入らない。入らない方がいい」
私が言った。榊は「分かってる」と返した。分かっている人間が、ドアの外にいる。私は隙間を、自分の手で少し広げた。広げてから、狭めた。狭めてから、また広げた。
「五分だけ。話が、途中だった」
嘘だった。話は途中ではなかった。榊は入ってきた。ドアが、音を立てて閉まった。チェーンは、まだかかっていない。
部屋の端の椅子に、榊は座った。私はベッドの縁に座った。距離は、昔の給湯室より長かった。指輪を、私は親指で内側から押した。
「帰る」
榊が先に言った。立ち上がる背中を見て、私は安心した。安心のすぐ後ろで、胸の奥が、ドアの閉まる音を待っていた。待っている自分が分かって、私は立ち上がった。
「待って」
声が、自分の意図より先に出た。榊はドアに手をかけたまま、止まった。振り返らない。振り返らないでいてくれれば、私は引き返せる。榊は、ゆっくり振り返った。
キスは、深くなかった。確認のほうに近かった。私は顔を離した。
「しない。今日は、しない」
「しない、でいい」
榊の声は低かった。しない、でいい、と言いながら、額を寄せてきた。私はそれを受けた。受けて、また顔を離した。呼吸が、二人のあいだで乱れた。乱れたこと自体が、もう境界の外に片足を出していた。
「……帰って」
「帰る」
榊は本当にドアへ歩いた。ハンドルに指がかかった。その音で、私の中の何かが、いけない側へ倒れた。私は後ろから袖を掴んだ。掴んだ手に力が入って、入った力を、自分で止められなかった。
いけない側
二度目のキスは、確認ではなかった。榊の手が、私の背中をドアに預ける。壁一枚の向こうが、榊の部屋だという感覚が、先に体へ来た。いけない、と思った。いけない、と思った瞬間に、下着の内側が熱くなった。
「今の、分かってるか」
榊が耳のそばで言った。分かっている。分かっているのに、腰が先に答えた。榊の腿に、私の前が触れた。触れた場所が、すでに濡れていた。
「いけないと思ってるのに、こんなに」
否定できなかった。いけないから、濡れる。夫の顔がちらついて、そのちらつきで、さらに熱くなった。罪悪感が、燃料になっていた。私はそれを認めないつもりで、榊のシャツの前を開いた。開いて、また手が止まった。
「ここで、やめられる」
榊が言った。やめられる、と置いて、やめない選択を私に渡している。私は渡されたものを、一度、押し返した。ベッドの縁まで歩いて、距離を作った。作った距離を、自分から埋めた。
服が、順番に落ちた。落ちるたびに、引き返せた。返さなかった。榊の口が鎖骨の下に来たとき、私は声を歯の裏に閉じた。隣の部屋は空だ。空でも、声を出すことが、越える印に思えた。
指が、私の濡れに触れた。榊の呼吸が、そこで一度、乱れた。崩さなかった顔が、その一拍だけ落ちた。
「……っ、今の、俺も」
それ以上は言わなかった。言わない代わりに、指が遅くなった。遅いのが、焦らしだと分かった。あと少し、の手前で、抜ける。私の腰が、勝手についていく。ついていった先に、指がない。
「まだ、何もしないつもりか」
榊の声は、低くて、的確だった。私は首を横に振った。振り方では足りなくて、言葉が要った。
「して。挿れて」
「どこに」
「中。奥」
言った自分が、遠かった。榊はすぐに許さなかった。先端だけが触れて、止まる。蜜が、そこに絡む。とろける、というより、とろけたものが、ドア一枚分の罪悪感を伝って降りていく。
「奥まで欲しいなら、自分の言葉で」
「入れて。全部、中に入れて」
入ってきた。ゆっくりで、逃げ場がなかった。奥まで届いた瞬間、私の背中がベッドから浮いた。浮いたまま、息を吸って、吸ったまま止まった。榊は動かない。動かないことが、また焦らしだった。
「指輪したまま、俺を入れてほしいのか」
見てしまう。金の輪。いけない。いけないが、中で広がって、私は「ほしい」と繰り返した。繰り返した声で、榊が動き始めた。
腰が、私のほうから勝手に上がる。上げて、受けて、また上げる。濡れている音が、部屋の小ささに合わなかった。私はそれを消そうとせず、榊の肩に腕を回した。
「イきそうなら、言え」
言える状態ではなかった。奥を擦られるたびに、声が喉の奥から漏れた。漏れた声を、榊が口で止める。止めた口のまま、深く入る。私の爪が、榊の肩に入った。入った感触を、榊は痛がらず、呼吸だけで受けた。
「今の深さ、分かるか。お前の中が、離さない」
離さなかった。とろけたものが、抜き差しのたびに溢れた。いけない、が、もう燃料以外の何でもなくなって、私は榊の名前を呼んだ。呼んだ拍子に、制御が外れた。
背中が、大きく浮いた。爪が、肩の肉に沈む。浮いたまま、中でイった。一度で来て、逃げられなかった。声は出ない。出ない代わりに、肩の下で榊の骨を掴んでいた。掴んでいるあいだに、二波目が来た。来た先で、榊の余裕が、また一度、薄く崩れた。
「……だめだ、今のは」
だめだ、と言いながら、奥で熱が広がった。私はそれを受けた。受けたことが、朝までの約束にならないように、目を閉じた。閉じた瞼の裏で、隣の部屋のドアが、まだ閉まっている気がした。
別々の朝
起きたとき、榊はいなかった。四百十三のドアが、一度、閉まる音がした。私はカーテンを開けなかった。指輪は、外した位置に戻してあった。戻した指が、昨夜の肩の感触を、まだ覚えていた。
チェックアウトは、時間をずらした。ロビーの自動ドアが、私の前で開く。開いた先に、榊の背中はなかった。
何も約束しない。隣の部屋のドアは、今朝からただのドアに戻っている。戻っているのに、廊下を歩く足が、四百十二の数字を、一度だけ、親指の腹でなぞった。
車に乗る前、メールの下書きを開いた。開いて、閉じた。送らない。送らないことが、昨夜の続きだった。三十八歳の私は、切符を改札に通して、何もしないつもりだった夜を、そのまま持ち帰った。


