誰かを愛するためには必ず必要な自己愛
誰かに対する愛と自己愛の共存
当サイトで、常々申しておりますのは、欲や自己愛のない人間など存在しないという事です。
そして、他者に対する愛は、常に自己愛の元に生まれています。
そして、全く逆の場合でも同様です。他者を愛するからこそ、より深く自分を愛せるようにもなるのです。
- 誰かを深く愛する感情
- 自分を愛する感情
この2つの愛は、相互関係にあり、どちらか一つが欠けても成立はしません。必ず共存しているものなのです。
常に、誰かを愛することと、自分を愛する自己愛は同時にあるからこそ成り立っている感情で、どちらか一つだけが存在するという事は、100%ありません。
自己愛があるからこそ誰かを愛せる
自己愛を持つ事は、ナルシストとも言われ、誰もが否定的に捉えてしまいがちです。
ですが、自己愛を持つことは、私たち人間が生きる上で最も重要なものです。
生きる事さえままならない、まるで生きる屍のような状態になってしまいます。
- 自己愛があるから、食べたいと思うし、眠りたいと思う。
- 自己愛があるから、欲が生まれ誰かを愛する気持ちが生まれる。
- 自己愛があるからこそ、好きな人の傍にいたいと思う。
- 自己愛があるからこそ、誰か好きな人と一緒にセックスで感じたいと思う。
イク事のできない女性が、「彼氏とのSEXでイッてみたい。」という気持ちは、彼氏からイッて欲しいと言われたり、プライドを傷つけたくない という理由があるだけではなく、二人の間の気持ちいいという想いを共感したいという感情からの表れです。
自己愛があるからこそ、欲が芽生えたり・誰かを愛する事ができるのです。
誰かに対する愛はより深く自分を愛せる
「自分が、全てをかけて愛した。」という気持ちは、「特定のその相手の前でいられる自分を愛していた。」という気持ちに言い換えられます。
好きな相手の前で、表面上の美しさやカッコ良さを、常に気取らなくては「嫌われるかも」という恐怖心があったり、本音を全く言えないような気のおける間柄であった場合、その感情は相手に対して持っているのではなく「恋に恋している」という状態となります。
- 誰にも見せることのできないすっぴんや、セックスの時の淫らな自分の全てを、平気で見せることができる。
- 嫌われる嫌われない関係なく、自分を主張することができる。
- 利害関係など考えず、真っ直ぐに向き合える。
こういう相手を心から愛していると言う場合は、その相手の傍にいる自分が大好きなはずです。
「私は、ブスだし全くモテない。でも、その人の前だけでは、ちょっと可愛くなれるような気がする・・・」
こう感じるのも、愛している人の目の前にいる自分を愛しているからです。
- 全く他人ばかりの前にいる自分
- あまりよく知らない誰かの前にいる自分
- 少し気心が知れた友人の前にいる自分
- 心から愛していると感じる誰かといる自分
いったい、どの自分の姿が一番好きと感じるでしょうか?
心から愛していると感じる誰かといるそのままの姿ですよね。
愛している誰かが去った時の悲しみ
愛している特定の誰かが去ってしまった時、悲しみや怒りに苛まれたり、恨みの感情が芽生えるのは、そういった自分自身を曝け出せなくなってしまった寂しさによる感情も含まれています。
その相手との大切な時間を失うと共に、自分のありのままを表現する場所も失われてしまうからです。
それが、ごく正常な自己愛です。
よって、「これだけ愛していたのに・・・」という言葉を発してしまいます。
ただし、相手だけを想って というわけではなく、自己愛が含まれる事もおわかりですね?その自己愛を否定してはいけません。
誰かを愛したいのなら自己愛を否定してはいけない
これらの事から、自己愛を否定するという事は、生きる全てを放棄したということになってしまいます。
全ては、自分自身のありのままを、否定せず・理解し・受け入れる事から始まります。そして、それが当然の事であると固執しないこと・すなわち手放すのです。
誰かに対する愛も、自己愛も、受け入れ・そして手放すことで、それまで見えなかった様々なものが見えてくるようになります。
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